ポルシェ博士とVWビートル 一度は見捨てられた国民の車

くるまるです。

今回もまた、
ポルシェ博士の功績について
お話しましょう。

前回にはハイブリッドカーと
博士の関係に絞って
お話をしました。

今回は世界的なベストセラー車
『フォルクスワーゲン ビートル』
とポルシェ博士についてです。

ビートルというのは愛称で車の名前は
『フォルクスワーゲン タイプ1』
というものです。

1938年に軍用車として
量産型がはじめられ、
その後2003年までの生産で

累計生産台数「2152万9464台」

という車史上
類を見ない傑作車です。

設計をしたのは
フェルディナンド・ポルシェ博士
ですが、

あの丸くて親しみのある
デザインは別の人物が
提案しました。


 ▲フォルクスワーゲン タイプ1(ビートル)
出典:By Rudolf Stricker [GFDL or CC-BY-SA-3.0], from Wikimedia Commons

VWビートルのデザイナー

ビートルのデザインは
その後1998年に
フォルクスワーゲン ゴルフを
ベースとした
『New Beetle(ニュービートル)』
にも反映され、


▲フォルクスワーゲン ニュービートル
出典:By Thomas Springer [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

2012年から
現在でも発売されている
『The Beetle(ザ ビートル)』
にまで受け継がれています。


▲フォルクスワーゲン ザ ビートル
出典:By Morio [CC BY-SA 3.0], from Wikimedia Commons

つまり、
現代にも通じる
すばらしいデザイン
と言えるでしょう。


▲ビートルのラフスケッチ

そんな
ビートルのデザインを考えた人物を
彼の描いた絵画と共に
ご紹介しましょう。

出身はオーストリア

子供や犬が大好きなその人物は

酒や煙草を嫌い

 

ベジタリアンでした

その彼の名は

アドルフ・ヒトラー
【1889年 ~1945年】

1933年に
ドイツの首相となったこの人物は
様々な問題がありましたが、
ドイツの工業界や
世界の車業界にとっては
重要な財産と功績を残したのでした。

その功績というのが
アウトバーンの建設と
フォルクスワーゲンです
首相に就任した1933年
ベルリン国際自動車オートバイ・ショー
でヒトラーは

  • これから国の良し悪しは鉄道ではなく、道路の長さで決まる。
  • 自動車が金持ちのものである限り、それは貧富を分ける道具にしかならない。
  • 多くの国民のための移動手段であってこそ、車は文明の利器なのである。
  • 我々は『国民のための車』を持つべきなのである。

と語りました。

アウトバーン

アウトバーンといえば
速度無制限道路
として有名な高速道路ですが、
全部がそうではなく
制限速度のある区間もあります。

出典:By Darkone (Darkone) [CC BY-SA 2.5], via Wikimedia Commons

1970年~1980年代は
スーパーカーやスポーツカーが
大人気だったこともあり、

「公道であるアウトバーンでランボルギーニが最高時速300km/hを出した!」

といった話題に憧れた
30代~50代の方も
多いのではないでしょうか?

このアウトバーン、
ドイツの前身である
プロイセン王国が中心だった
ドイツ帝国時代から
計画自体はあったのですが、
なかなか計画は
前に進んでいませんでした。

1930年代のドイツ交通事情

ドイツの道路に関しては、
大小26もの国や都市で構成された
連邦国家であった
ドイツ帝国時代には
統一された計画がなかったので、
道路がうまく繋がっておらず
交通網として
うまく機能していませんでした。

そして車事情はというと、
1930年の人口は

アメリカ:約1億2000万人
イギリス:約4600万人
ドイツ:約6500万人

1930年の車が走っていた台数は

アメリカ:2300万台
イギリス:100万台
ドイツ:約50万台

ドイツは車に関して
他の先進国よりも
大幅に普及が遅れていたのでした。

ヒトラーはこの事実を知り、
危機感を抱いていたのです。

アウトバーンの目的は

  • 道路交通網の近代化
  • 失業者率30%を超える雇用問題の対策

それから

  • 戦車や装甲車部隊をすばやく移動させる軍事道路
  • 飛行機の滑走路

という第二次世界大戦を
想定した目的も含まれていました。

建設計画は総延長14000km。

1933年9月23日工事が始まり、
1942年には第二次世界大戦のため
工事が中止されましたが、
9年間で4800kmに着工し
3900kmが完成という、
ハイペースで建設が進みました。

▼アウトバーン起工式で演説するヒトラー 


出典:Bundesarchiv, Bild 183-2006-0613-500 / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

フォルクス ワーゲン計画

ヒトラーはアウトバーン建設と同時に
『国民が一家に一台車を持ち、週末にはドライブを楽しむことが保養になる。』
という方針が打ち出されました。

これがフォルクス ワーゲン
(people’s car=国民の車)
計画です。

フォルクスワーゲンというのは
国民の車という意味だったんですね。

そしてこの車の設計を依頼されたのが
ドイツ シュトゥットガルトに
自動車設計と
コンサルティングを行なう事務所を
設立していた

フェルディナンド・ポルシェ博士でした。

実はヒトラーはカーマニア。

週末になると
愛車のスーパーチャージャー付きの
メルセデス・ベンツを乗り回し、
ミュンヘンから
シュトゥットガルトまで出掛け、
サーキット走行を
楽しんでいました。

ヒトラーはそこに居合わせた
ポルシェ博士と
出会うことになります。

フォルクスワーゲン計画を
進めるにあたり、
世界的に著名なレーシングカー設計者
として有名だった
ポルシェ博士に
ヒトラーは尊敬の念を抱いていたので、
計画にぜひ関わって欲しい
と考えました。

以前より
小型大衆車開発を実現したい
と考えていたポルシェ博士は
この依頼に快く応じ、
ヒトラーが
フォルクスワーゲン製造の為に
出資していた民間企業団体である

ドイツ自動車工業連盟(RDA)

と正式に契約しました。

ヒトラーのリクエスト

ヒトラーはカーマニアでしたから、
自動車の知識が多く、
いろいろと細かい部分まで
リクエストをしてきます。

その的確なリクエストや
計画するにあたっての相談や質問は
ポルシェ博士を驚かせ、
感心させたそうです。

  • 大人2人と子供3人、荷室がある小型車であること。
  • 燃費が良いこと(7Lの燃料で100km以上の走行)
  • アウトバーンを高速走行できること(連続巡航速度100km/h以上 )
  •  車種シリーズは少なめで互換性が高いものであること
  • 1つのエンジンで、救急車にも偵察車にも大砲の重牽引車にも使えること
  • 丈夫で分解と修理、交換が容易な空冷式エンジンであること
  • 標準化を進め、車体の生産もエンジンの生産も単純化することが必要

そして計画の中で
ヒトラーが最もこだわったのは

  • 1000マルク以下という価格

当時どれだけ安い小型車であっても
1500マルクはしていました。

こうした数多くの
厳しいリクエストはポルシェ博士の
「大衆向けの小型自動車をつくりたい。」
というずっと描き続けてきた思いに、
よりいっそう火をつけました。

ポルシェ博士のガレージには
優秀な若手技術者が集められ、
作業は始められました。

プロトタイプ完成を待たずに、
再びベルリン国際自動車オートバイ・ショーの開会式で
登壇したヒトラーは

「優れた技術者、ポルシェ博士とそのスタッフの努力により、ドイツの国民車が誕生の運びになったのを喜びたい。」

「中型オートバイより安く、しかも燃費の良い小型車をドイツ国民に贈ることが、将来必ず可能になるものと信じている。」

と国民に対して先行発表します。

そして、
ポルシェ博士は
計画開始から3年後の1936年に
空冷リアエンジン、
リア駆動のプロトタイプカー
を完成させたのでした。
このリアエンジン、
リア駆動方式はビートル以外にも
ポルシェ356や
ポルシェ911(空冷エンジンは 993タイプまで続いた)
に受け継がれています。

▲1970年代のビートルのエンジン 空冷式のコンパクトなエンジンで後輪駆動する

完成した試作車

『VW3』
の走行テストは入念に行なわれ、

翌年、改良を加えた試作車
『VW30』、『VW60』

そして、最終型プロトタイプ
『VW38』が完成。

走行テストが
ナチス親衛隊(SS)によって
行なわれました。

ナチス親衛隊が
テストドライバーとして選ばれた理由は
自動車の予備知識がない
素人が運転しても
操作が難しいところがないか?
故障が発生しないか?
を確認するためでした。

1台の年間走行距離が
約80,000kmにも及ぶ
過酷なテストが総勢30台で行われ
計画全体の予算として
3000万マルクが
消費されていました。

民間の企業団体である
ドイツ自動車工業連盟(RDA)は
この大きな予算消費を
後々の商売として考えたときには
面白くないと、
この時ポルシェ博士に
不満を抱えます。

出しゃばったオペル

翌年1937年、
ベルリン国際自動車オートバイ・ショーで
ヒトラーは
計画が順調に進んでいることを
国民に伝えます。

この1937年に
ある事件が起こります。

ドイツ自動車工業連盟(RDA)の
一員であるオペル社が
ポルシェ博士を出し抜こうと
密かに車を開発していたのです。

ドイツ自動車工業連盟(RDA)は
自動車メーカーではなく
一介のコンサルタントである
ポルシェ博士がヒトラーに気に入られ、
予算や儲けを度外視した計画を
主導していることを
あまり良く思っていませんでした。

オペルの社長
ヴィルヘルム・フォン・オペルは
自動車ショーでブースを構え、
見学に来たヒトラーを迎えて、

「総統閣下、ご覧下さい。これこそがドイツ国民の車でございます。」

と、密かに開発していた車
『オペル P4』を見せたのです。


▲ヴィルヘルムがヒトラーに見せた『オペルP4』
出典:Wikipedia

これを見たヒトラーは
くるりと向きを変え
無言で立ち去りました。

ヒトラーの面目(めんぼく)をつぶしてしまったのです。

ヒトラーは自分でデザインした車を
尊敬する
ポルシェ博士にお願いをして、
計画をたてて、
制作にかかっていたのですから、
それを否定するこのオペルP4は
侮辱です。

オペルに
面目をつぶされたヒトラーは、
ドイツ自動車工業連盟(RDA)
の力を使うことなく、
国営組織での
フォルクスワーゲン生産を
決心します。

フォルクスワーゲンの生産は
ナチス・ドイツにおいて
設置された、
労働者、経営者の統合を
図った組織、

『ドイツ労働戦線(DAF)』
に移管することを決定し、

「フォルクスワーゲン準備会社」
という国営組織(国策会社)
が生まれました。

翌年の1938年
「フォルクスワーゲン製造会社」
と名称を変更します。

ヒトラーは
世界最大の生産工場を
作るように指示しました。

フォルクスワーゲンの工場敷地は
近くに運河が通る
広大な荒地が選ばれ、
大工場の建設が始まりました。

工場建設は大規模な
都市計画と共に進められ、
工業都市『KdFワーゲン市』が完成します。

『KdF』とはKraft durch Freude(歓喜の力)という、
ドイツ労働戦線(DAF)の
スローガンの頭文字を
取ったものでした。

生産責任者に任命された
ポルシェ博士は
工場での大量生産を研究するため、
自動車量産の祖といえる
アメリカのフォード社に訪問し、
大量生産のノウハウを学び、
研究用のV8エンジンと
工場生産用の機械を購入して
帰国しました。

フォードの創業者
ヘンリー・フォードは
反ユダヤ主義者でした。

ポルシェ博士が
大量生産について
調査した時の協力と
ナチス・ドイツへの
資金援助があり、

ヘンリーフォードが75歳になった
1938年の誕生日には
ドイツ人以外に与えられる
最高の勲章
『ドイツ大鷲十字章』
が授与されています。

量産、受注開始

1938年5月26日には
量産開始の起工式が行なわれ、

この車に

「KdF-Wagen」(KdFワーゲン)

と名前を付けました。

KdFワーゲンは、
外国の新聞記者にも披露され、
プロモーション活動が
大々的に展開されました。

ドイツ国民に対しては
家族がドライブをして
休暇を過ごすイメージの
カタログやポスターが
大量に作られ、
アピールされました。


出典:Wikipedia 

KdFワーゲンを買うためには
ドイツ労働戦線(DAF)の組合員となり、
毎週5マルクを
ドイツ労働戦線(DAF)に収めて
「証紙」を受け取り、
台帳に貼って
990マルク分の証紙がたまったら
納車される。

というものでした。

夢と希望に胸膨らませたドイツ国民は
毎週ワクワクしながら
5マルクの証紙を貼り、
約4年後の納車を
楽しみにしていたに違いありません。

予約購入には
33万人もの労働者が
2億8000マルクを支払いました。

しかし、
このKdFワーゲンは

1台たりとも
ドイツ国民に
納車されませんでした。

戦争で取り上げられた国民の車

1939年9月
ドイツ軍によるポーランド侵攻。

第二次世界大戦が勃発したのです。

当初の予定を変更し、
フォルクスワーゲン工場では
KdFワーゲンの生産を中止して
KdFワーゲンををベースとした

小型軍用車キューベルワーゲン


出典:By Darkone [CC BY-SA 2.5], from Wikimedia Commons

水陸両用車シュビムワーゲン


出典:Bundesarchiv, Bild 101I-298-1771-19 / Hähle, Johannes / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

これらが
製造されることになりました。

実を言うと600台ほどは
KdFワーゲンとして完成しており、

ナチスの幹部たちが
移動手段として利用していました。


 出典:By No machine-readable author provided. ChiemseeMan assumed (based on copyright claims). [Public domain], via Wikimedia Commons

敗戦後のポルシェ博士

みなさんご存知の通り
第二次世界大戦で
ドイツは戦争に敗れます。

1945年4月30日

アドルフ・ヒトラーは
長年の恋人
エヴァ・ブラウンと
結婚式を挙げました。

その後、
毒薬で愛犬を毒殺し、
同じ毒を使って
妻エヴァは自殺します。

エヴァと共に
地下壕の自室に入った
ヒトラーは
拳銃を使って自殺します。

連合軍の手に渡るのを恐れて
遺体はガソリンをかけて
焼却されました。

そしてポルシェ博士は、
エレファントやマウス
といった戦車の
設計に協力したこと。

ヒトラーと
親密な関係であったこと。

これらを理由に、
1945年6月、戦争犯罪人として
アメリカ合衆国軍により連行され、

戦犯容疑者収容所となっていた
古城に閉じ込められます。

約2年後の1947年8月
息子フェリー・ポルシェが
保釈金を支払い、
ポルシェ博士は釈放されました。

70歳になっていた
ポルシェ博士は幽閉生活のために
の健康を害し、
病人のような状態に
なってしまいました。

戦後価値なしと評価された車

何度も空襲を受け、
ほとんど廃墟と化した
「KdFワーゲン市」には
イギリス、アメリカから
軍が進駐してきました。

工場のある地区は
イギリス軍の占領地区となり、
工場再開指示のもと
占領中の工場を
立て直し始めたのでした。

町の名前は
イギリス軍政府によって
近くにあるお城の名前からとり、
『ヴォルフスブルク』
と名づけられました。

私の父親が
昔所有していたビートルには
ハンドル中央の
ホーンボタンにお城のエンブレム
がついていました。

これが
ヴォルフスブルクの紋章です。

また、
生産される車名は、
ヒトラーが命名したKdFワーゲンから

フォルクスワーゲン タイプ1(タイプワン)

に変更され、

少しずつですが、
生産が開始されました。


出典:By Pfan70 at English Wikipedia (Transferred from en.wikipedia to Commons.) [Public domain], via Wikimedia Commons

しばらくしてから、
イギリスから
自動車の専門家たちが
フォルクスワーゲン工場に
やってきます。

この専門家たちは
フォルクスワーゲン タイプ1を
乗り回してテストし、
イギリスの国益になり得るか
どうかをチェックしました。

その評価は
以下のようなものでした。

  • 「この車は技術的にも生産的にも我々が驚くべき点がひとつもない。」
  • 「デザインは不細工で、どの国で売っても好まれないだろう。」
  • 「空冷式リアエンジンも騒音が大きい。」

結果、
イギリス軍が管理運営していた
フォルクスワーゲン工場は
オペル社の幹部
ハインリッヒ・ノルトホフ
を最高責任者として
1948年にドイツに返還されました。

ノルトホフは、
ポルシェ博士に対して批判的な
ドイツ自動車工業連盟(RDA)
の一員である
オペルの社員でしたから、
試作段階の
フォルクスワーゲンの
エンジンに対して、

「これは航空機用のエンジンだ、大衆車用にしてはコストがかかりすぎる。」

と批判していましたが
ノルトホフは
フォルクスワーゲン タイプ1の
量産車を見て、
この車のすごさに驚き、
ポルシェ博士の偉業に
頭を下げるしかありませんでした。

ノルトホフは
このタイプ1の輸出によって
販売を拡大します。

特にアメリカへの輸出は成功し、
「フォルクスワーゲン社」
を大きく育てました。

1955年 タイプ1の累計生産台数は
100万台を突破します。

1967年に1000万台を突破、

1972年にはアメリカフォードの
「T型フォード」が持っていた

世界記録1500万7033台を突破。

2003年7月30日、
メキシコ工場での最終車両まで
半世紀以上に及ぶ生産は
続きました。

その総生産台数は

2152万9464台に達しました。

ポルシェ社の創設

1947年に釈放された
ポルシェ博士はその後、
翌年の1948年に
息子のフェリー・ポルシェと共に
「ポルシェ社」を創設しました。

ポルシェ社は
フェリーが中心となって、
現代まで続く
ポルシェの原点となる車
『ポルシェ 356』を制作、
発売しました。

優れた性能の
スポーツカーとして
予想を超える
大ヒット車となりました。

同年1948年、
ポルシェ社と
フォルクスワーゲン社の間で

以下のような
契約が交わされました。

  1. ポルシェ社は今後フォルクスワーゲン社と競合する車種を、他のメーカーのために設計することができない。
  2. フォルクスワーゲン社はポルシェ社の保有する特許技術を自由に使うことができる。
  3. その代わり、生産された車1台につき一定額のロイヤリティーをポルシェ社に支払う。
  4. ポルシェ社は、フォルクスワーゲン社のパーツを自由に利用してスポーツカーを製作できる。
  5. フォルクスワーゲン社のサービス網をポルシェ社は利用できる。

この契約によって、
創設間もないポルシェ社が、
権利収入を得たり、
フォルクスワーゲンの
大きなサービス網を得られたのは、
またとない幸運でした。

しかもポルシェ社は
オーストリアにおける
フォルクスワーゲン車の
独占販売権を得たので
会社経営は安定したまま
進めることができました。

1950年9月3日、
フェルディナンド・ポルシェ博士
75歳の誕生日には
シュツットガルトの自宅で
盛大なパーティーが開かれ、
たくさんの
ポルシェ 356オーナーたちが集まり、
お祝いしたそうです。

この年の11月ポルシェ博士と
息子フェリーは
フォルクスワーゲン工場の街、
ヴォルフスブルクを
見るため旅に出かけました。

ポルシェ博士は、
ノルトホフ社長の努力によって
復興しつつあった

「フォルクスワーゲン工場」と
たくさんの
「フォルクスワーゲン タイプ1」
がアウトバーンを
走り回っているのを目の当たりにして、

感激の涙を流しました。

シュトゥットガルトに
帰り着いた次の日の夜、
ポルシェ博士は
突然激しい脳卒中の発作に襲われ、
重体に陥ってしまい、

そのまま
寝たきりの状態になってしまいました。

その年のクリスマスを
家族と共に過ごした
ポルシェ博士は、

翌年の1951年1月30日に
75年の生涯を終えました。

ポルシェ博士の偉業はまだあります

いかがでしたでしょうか?
フォルクスワーゲン タイプ1(ビートル)
この車の裏には
ポルシェ博士だけではなく、
たくさんの人の関りや
歴史が刻まれていましたね。

実はまだ
ポルシェ博士については
お話できていないことがあります。
それは『レースカー』についてです。
このお話はまた、
次の機会にお話ししたいと思います。

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